少女漫画が大好きな姉に性暴力を受けていた

 

30歳、女。

5歳上の姉に性暴力を受けていた。

 

最近色々思い出して苦しいので吐き出すために日記を書く。とても長いので長文が嫌いな人は読まない方がいい。

 

私の姉は横暴だった。

疲れたからジュース入れて。この鞄部屋に置いてきて。ゲーム次私やるからあんたはおしまい。ココアの砂糖はふたつだって何回言ったらわかるの、えっ入れた?じゃあ入れ方が悪かったから次からちゃんとやって。

日常の全てにおいて、姉はいちいち私を下僕のように扱った。性暴行に関係しないエピソードを友人たちに話すと「姉あるあるだね」と共感を呼んだこともある。

それでも私は姉が好きだった。嫌われたくなかった。姉に機嫌良くいてほしかった。それは田舎だから子供の数が少なくて遊び相手が他にいなかったのもあるし、両親共働き家庭においてたった1人の「こどもなかま」だったのも、大きな理由だと今では思う。

機嫌が良ければ姉は天使だ。たくさん遊んでくれるし勉強も教えてくれるし、笑ってくれる。でも機嫌を損ねればもうおしまい。何を話しかけても無視されたと思えば急に首を絞めてくるし、苛々しながら「あんたはそんなだから友達がいない」「あんたのことなんか誰も好きにならない」「いらない人間」と鞄を投げてくる。

 

こうやって姉にされたことを振り返ると、姉が異常な人間に見えて、これから書く性暴力についても「100%姉の人間性が原因で漫画は関係ない」と受け取られてしまいそうだ。

でも、私は「環境」と「ゾーニングの不備」が姉を性暴力に向かわせたと思っている。この先の文章を読んでくれるなら、どうかそれを念頭に置いて読み進めてほしい。

 

「環境」についての話をする。

両親共働き、変則勤務、多忙。祖父母は同居しているが農業のことしか考えず孫に興味がない。

家庭でしつけをされた記憶がなく、大抵のことは友人の母や祖父母から教わった。放置子と言えば通じる人がいるかもしれない。親から遊んでもらった思い出は、私の中に全く無い。

勉強はできたけど生活の作法や一般常識がわからず、よそ様にとても迷惑をかけた。一挙手一投足に干渉してくる田舎特有の距離の近さは、当時の私にとって良いように作用していた。

だけど、いかに距離が近いとはいえ所詮は他人なので踏み込んだ助言は無い。理屈をつけて「〇〇だから駄目」と言われるんじゃなく「それは駄目」と注意だけされる。何度も何度も注意されるうち、私はひとつひとつ、あれは駄目これは大丈夫、と失敗と成功を編み上げながら「普通みたいな振る舞い方」を身につけていった。

 

姉もまた、おそらく放置子だった。

両親と会話をしている姿を見たことがないし、祖父母ともあまり関わらず友達とばかり遊んでいた。当時の私は「友達が多くて活発な姉は親がいなくても寂しくないんだ」と思っていたけど、一度姉から「妹だからって構われてずるい」と首を絞められたことがある。姉は姉で、やりきれない寂しさを抱えていたんだろうと思う。

子に構えない罪悪感があったのかどうかは知らないけど、両親は本を豊富に買ってくれた。本屋で気になった本のタイトルをメモして、寝る前に居間の机に置く。すると数日後には机の上に置いてある。コミュニケーションがあったわけではないから、買ったもらったと言うよりは「申請して支給された」と言った方がしっくり来る。

実家にいる間はいろんな漫画、いろんな小説を買ってもらえた。はたから見れば本好きな姉妹だったと思う。でも親は私たちが申請する本をいちいち確認していなかったから、年齢に見合わない内容を扱う本も姉の希望でいくつか入っていた。

少女コミックという漫画雑誌は、私が最初に出会った性表現だ。

 

ゾーニング」の話をする。

今思えば、少女コミック性教育もまともに受けていない私にとって早すぎる漫画だった。

少女コミック、略して少コミに初めて出会った時私は確か5,6歳くらいで、姉は10歳くらい。姉は生理が来ていたり教師から男女の体の差を教えられていたかもしれないけど、私は性の右も左もわからなかった。

そんな状態で読んだ性の塊、今でもはっきり思い出せる。意味はわかっていなくても刺激的で面白かった。男の人が嫌がる女の子を裸にして、足を閉じようとしているのに無理やり開いて性器を見て、その後遅れてやってきたイケメンに半殺しにされる話が好きだった。オタク風に言えば性癖が歪んだ。

好きな人と結ばれた後は、裸になって抱き合うのが普通なんだと思った。セックスというのは気持ちが良くて、男女が出会えば普通にやること。最初は普通に会話をしているだけでも、いずれ必ず、そうなる。少コミの定期購読を始めた幼児の感想は概ねそんな感じだった。

セックスに対して無条件に肯定的で、なんのリスクも知らずに、ただ「好きな人に求められて行う幸せなこと」と理解する。これがどれだけ危険なことか大人になった今ならわかるし、セックスと同時に知るべきことが山ほどあったと思う。避妊の方法、各手法のメリットデメリット、性感染症、無理なセックスによる性器の損傷があることや、いざという時に尋ねるべき場所、および診療科。そしてセックスが商業に関連しており「楽しい」だけでは済まない事例もあること。そして何より、セックスは「しなくてもいい」ということ。

紆余曲折あっても最終的にセックスは肯定される。めでたしめでたしと同じ場所にあって、必ずみんな通る楽しい出来事。そんな風にファンタジーの中に生々しさを隠したセックスじゃなくて、コミュニケーションとしてのセックスを、私は最初に知るべきだった。

リスクがある。上手くいかないこともある。傷つくこともある。やりたくないならそれでいい。ただ、自分にセックスが必要だと思った時に、傷つかないように行えるような知識が欲しかった。それが性教育と言われるんだと、大人になってから知った。受けられなかった教育を後追いで身につけて、「もっと早く知りたかった」と年甲斐もなく泣いてしまった。

実際のところ、セックスがどういうものか教える機会よりも、フィクションの世界で誇張されたセックスに出会う方が多い。フィクションを消せとは言わない。創作の火を絶やせとも思わない。ただ、無知ゆえに人を傷つけるリスクがあるなら、教育の届かない層が手に取らないようゾーニングが必要だろう。そこに男性向けとか女性向けとか、関係無い。個人的には包丁と同じ扱いになって欲しい。「危険なものだが必要とする人が必ず手に取れる」ように、そして「危険な面もあるが使い方を学べば怪我をしない」ように。

被害者と加害者を生まないためには教育の徹底が必要だけど、すぐに効果は生まれないし、そもそも教育を受ける気がない人もいる。だったら扱う場所を区切った方が早い。歪んだ性癖を扱う楽しさよりも、フラッシュバックと向き合う辛さの方が大きい。あの時少コミが届く環境が整えられていたことは、とても不幸だったと思う。

 

姉から受けた性暴力の話をする。

生々しい話になるので、無理だと思ったら読むのをやめてほしい。

 

幼い私にとってセックスは「気持ちがよくて普通にみんなやってること」程度の知識で、少コミに関しては「よくわからないけどドキドキする漫画が載ってる雑誌」という認識だった。でも、姉は違ったのかもしれない。小学生の姉は、ある日私にこう言った。

「服脱いでこっち寝て」と。

 

姉の命令を断る理由は無い。

断ったらどうなることか。土日でも家に両親は居ないし、祖父母も不在で助けてくれる人はいない。我が身はかわいいし、たった1人の姉のことは、とても大事で好きだった。

普段服を着て寝るベッドで、下半身裸になるのはとても居心地が悪かった。本当は嫌だったけど、嫌だと言った後に何をされるかわからなかったから聞き分けのいいふりをした。姉が真剣な顔をしていたので、楽しい顔をしてほしいと思った。言うことを聞けば笑ってくれると思った。嫌われないで済むと思った。

 

姉は、私の性器を適当に触った後「なんか漫画と違うね」と首を傾げた。触ると濡れるのにな、と呟く背景には少コミ由来の知識があったんだと思う。家にある性的な書籍は、それ以外に無かった。

好き勝手に体を触り回った後、姉は「おしっこくさいから今度はお風呂入ってからにして」と言い、私を解放した。そこで「やっと終わった!」とか「何だったんだろう?」とは思わない。姉に嫌われたくなくて必死だった私は「シャワーでおまたを洗わなきゃ」としか考えられなかった。

姉とはいえ他人に性器を見られ、不潔な手で触られたことに対する感想は、何も芽生えなかった。

 

姉の行為は続いた。

姉に呼ばれたら股をシャワーで洗う、というルーチンが生まれた。でも私は性器がわからなかったから、足の付け根の、姉が触っていたあたりを適当に水で洗っていた。正しい洗い方も、洗うべき場所も、知る機会に恵まれるのはずっと後のことだ。

おしっこくさいと言われることに慣れた頃、姉は指だけでなく鉛筆や消しゴムを入れるようになった。この頃になると、ベッドの外では行為のことを無いように振る舞う姉の態度から「悪いことをしている」という意識も芽生えたものの、だからといって姉の命令を断る勇気が生まれるでもなく、毎回情けなく股をいじられていた。

とても痛かった。でも姉いわく「少し濡れてる」とのことで、幸いなことに怪我もなく終えていた。私は「痛いけど本当は気持ちいいのかもしれないし、私がおかしいのかもしれない。漫画のように濡れているなら、私は痛くてもこういうことができる大丈夫な体なのかもしれない」と思っていた。

 

現実から逃げられない時、子どもは子どもなりに、頭を使って正当化する。私は自分の頭で必死になって考えた「私はこういうことができる体だから大丈夫」という幼い理屈にすがっていた。

だけど大人になってから「身を守るために、子どもでも気持ちがいいと思わなくても濡れることがある」と知って、地面の底が抜けたような気持ちになった。

私は大丈夫だった、何も問題なんてなかった。そんな風に幼い理屈にすがりたかったのは大人の私も同じだ。

私は大丈夫じゃなかった。嫌な気持ちも痛いと感じることもおかしいことじゃなかった。体の反応は私の心と連動しないから、性器が濡れたからといって行為を肯定しなくてもいい。そう思えるようになった今の方が、自分のことを「大丈夫な体」だと思っていた当時よりずっとずっと辛い。

 

 

自分のことを「大丈夫な体」だと信じながら無理矢理に異物を差し込まれて、私の心と膣は非常に頑張っていたけどそれでも姉の理想には届かなかったらしく、ある日「上手くやれないのはあんたが悪い」と当たり散らされた。

上手くやる、がそもそもよくわからなかった。でも上手くやらないと姉はもっと怒る。嫌われてしまうかもしれない。そんな思いから私は少コミを熟読するようになった。他に性の知識を得る方法は、当時思いつかなかった。

親に本をねだることも考えたけど、何かのきっかけで行為がバレてしまったら姉が怒り狂うことは容易に想像できたし、私自身「悪いことをしている」という意識があったので人に相談することもできない。

閉ざされた環境の中でフィクションのセックスを読み耽った。毎号毎号かじりつきで読んで、姉から「えっちな話しか読まないじゃん。そういうの変態って言うんだよ」と馬鹿にされていたけど、姉の部屋には少コミで連載されていた本がずらりと並んでいたのでお前もなと思っていた。

 

行為がエスカレートしていくと共に、姉の本棚にキラキラした恋愛とドキドキするセックスを扱った漫画が増えていく。

親が本棚の追加購入を検討し始めたあたりで、私は少コミの扱う題材が偏っていることに気づいた。同じクラスの友達はなかよし、ちゃおあたりの雑誌を読んでいたけどそこにはセックスなんて全然出てこないしキスだけで場が湧く。コミュニケーションのレベルが違うのだ。

男女の関係では当たり前のことじゃなかったのか?子供向けには隠されているのか?と混乱した私は、歳の離れた兄がいて下ネタばっかり言っている友達にセックスが見たい旨を話して、兄の部屋からこっそりエロ本を持ってきてもらった。今思えばたぶんあれは同人誌で、少コミよりも大分優しい内容だったけど、確かにセックスだった。

でも友達の反応から、セックスが明らかに「いけないもの」だとわかったので、もう見せてもらうのはやめようと思った。

セックスについて知るべく、小学生ができる範囲でフィクションの世界を渡り歩いた結果、1番ドキドキする…言い換えれば都合のいいエンターテイメントセックスを見せてくれたのは少コミだった。

面白かった。セックス以外のストーリーもそれはそれは面白くて、キャラクターの恋愛模様に一喜一憂しながら物語に引き込まれた。だからこそ主役となるセックスがひときわ素敵に見えた。事実なんてこの際どうでもよく、物語なんてただ面白ければいいと思った。

 

そんなこんなでしばらくの間少コミが私のNo. 1漫画雑誌だったけど、友達の家で週間少年ジャンプに出会ってからは全てが一変した。セックスがなくても面白い漫画があるんだ、と衝撃を受けた。

セックスに至らないが信頼し合う人間たちの関係性、という魅力を知ってから世界が転換した。懸賞も応募していた。でも姉から「ジャンプは女の読者をいらないと思ってる。読むやつはみんな男だし、外でジャンプ好きとか言わない方がいい。懸賞なんか当たるはずないし応募する奴も馬鹿」と言われてから、なんとなく読まなくなっていった。

姉から嫌われるのも嫌だったし、物語の方から不要だと言われるのも悲しくて、自分をターゲットにしてくれる漫画を探して出会ったのがLaLaだ。

LaLaはすごい。ファンタジー少女漫画雑誌部門で私の中では堂々の一位だ。セックスに至る以前の、人間がぶつかり合って傷ついて恋をしたりしなかったりする細やかな心情の移り変わりが本当に面白くて、オタク風に言えば性癖が固定された。

そうしてLaLa一辺倒になるうちに物語のセックス漬けから抜けていき、体の成長も伴って、姉の命令をのらりくらりとかわせるようになっていった。嫌だから断ったと言うよりも、面倒だから断った。行為の後はおりものが増えて下着が汚れるし、血が出ることもあったから洗濯が大変だった。

 

姉の本棚には少コミ産の漫画だけでなくLaLa産の漫画も並び始めた。ジャンプ系は私の本棚に少し増えたけど、姉は「あんたはジャンプ好きだけどジャンプはあんたのこと嫌いだよ」と渋い顔をした。

でも、「ジャンプは男子の漫画だから読まない」と言いながらファッション雑誌を読んでいた姉が、こっそり棚の後ろにスラムダンクを隠していたのを知っている。

これは推測でしかないけど、姉にとって大事なのはジャンプとか少コミとかそういう問題じゃなくて、「少女」漫画という存在だ。私たちを受け入れてくれるエンターテイメントだ。

 

機嫌が良ければ姉は天使だった。たくさん遊んでくれるし勉強も教えてくれるし、笑ってくれる。でも機嫌を損ねればもうおしまい。何を話しかけても無視されたと思えば急に首を絞めてくるし、苛々しながら「あんたはそんなだから友達がいない」「あんたのことなんか誰も好きにならない」「いらない人間」と罵ってきた。

人を傷つける時には、自分が言われたくないことを言うんだと誰かが言っていた。その理論で行くなら姉は、いらない人間と言われて傷つくのだ。

友達の家に出入りして、たくさん話をして本を借りて、世界を広げるたびに自分の家が少し歪なことに気づいた。姉はおそらく私よりも、もっと早く気づいていた。

親から放置されて、ものを知らなくて、地域からも若干白い目で見られて、人との繋がりに飢えていた私たちが「セックス」という最上級のコミュニケーションに惹かれるのは必然だったように思う。

互いに必要とし合い、愛の言葉を囁き、苦難があっても必ず助けに来てくれて、なにより気持ちがいい。こういう世界があるんだと「少女」に語りかけてくれる。この物語を読んでもいいと言ってくれる。現実の世界に愛がなくても、物語の中には私たちの居場所があって、セックスというあたたかなコミュニケーションが存在する。愛の物語に没頭できる。

今のご時世なら性的同意やら避妊やら、雑誌内に記載があるのかもしれない。しかし当時は平成、セックスの負の面が物語に組み込まれることは珍しく、私たちはただただ美しい理想のセックスだけに浸った。

 

「少年漫画」を隠していた姉の気持ちが、今は少しだけわかる気がする。

「お前に読んでほしくない」と言われた物語を、見えるところに置き続けるのは辛い。否定された気持ちがぶり返すし、他人に「ジャンプなんて」と言った手前本棚には置きづらいだろう。

それでも物語の価値は消えないし、読みたい気持ちも変わらない。実際どうだか知らないけど、姉は姉で苦しかったんだろうな、と思う。

 

 

姉が進学して土日も部活に行くようになると、行為は自然と終わった。結局は暇つぶしで、感情の穴埋めだったんだろう。

私は「あれ何だったんだろうな」と思いながら特に追求しなかったけど、成長し知識が増えるたび、自分の受けた行為に対する恥、怒り、恐怖、不信感…様々な気持ちが溢れて気持ちが悪くなった。

あんなに好きだった姉のことが、大人になった今じゃ顔も見たくないくらいに憎い。昔あんなことをしておいて、幼い子供に関わる仕事をしているのも気持ち悪い。母親になって子供にしたり顔で「悪いことしたらごめんなさいだよ」とか言ってるのも吐き気がする。見たくてたまらなかった姉の笑顔が、最近では生理的に受け付けない。

最近よく見る芸能人の性暴力のニュースや、明らかにグルーミングされた被害者の発言を聞くと自分に重なってクラクラするし、吐きそうになる。これをフラッシュバックと呼ぶらしい。

 

吐き出さなければ、呼吸ができない。

そう思ってこの文章に至る。

タイトルの主語がでかいと言われそうだけど、以前に性的同意についての議論で「子供は漫画に悪影響を受けない」と言っている人がいたので、あえて「漫画」とタイトルに入れた。その人の目に留まると嬉しい。私たち姉妹は漫画にいろんな影響を受けたけど、当時の私たちにとって少コミは良い影響だったのか悪い影響だったのか、ぜひ意見を聞いてみたい。

漫画が子供に悪影響を与えることなんか無い、子供だって馬鹿じゃないから自分の頭で考える。だから何でも与えて良い。そう言える人は、考えるだけの頭を養ったり、整えてくれる人が存在する場に居たのだと思う。それか「漫画から受ける影響」がすぐに良い悪いに振り分けられると考えていたり、子供の柔らかい心に響いた何か後からじんわり輪郭を持つことを想定していないんじゃないか。善悪のフォーマットが無い状態で受け取るエンターテイメントは、大人が思うより強烈だ。

「自分の頭で考える」なんて、大人でも失敗することがある。人間、完璧にはなれないんだから当たり前のことだ。過ちを犯すのはその人のせいだけじゃない、システムが悪い。大人の世界はそうやってシステムを組み替えることでインシデントを減らしているはずだ。子供を無邪気に信頼するのは無責任のように思える。欲しいと思った人だけがセックスを手に取れるようなシステムがあればいいのにと強く思う。それは過去の私への贖罪でもあるし、未来の誰かに対する防波堤になりたいという願望でもある。

 

 

性暴力の記憶は、封じていた方が楽だ。

下手に話すと引かれるし辛いし、こっちは苦しい話をしてるのに「でもなんだかんだ楽しかったんでしょ?」とか言い出す変な人が寄ってくる。

だけどmetoo運動やジャニーズ事務所に関する一連の報道を通じて、口を開くことでしか解決できないこともあるんだと知った。

そして「口を噤んでいる奴は性暴力に加担している」という主張があることも知った。話せること話せないこと、みな事情があるだろうけど、システムの改善という視点で言えば確かに問題を放置するのは良くない。

 

私の投稿で何かが変わるとは思えないけど、吐き出すついでに「こういうことがあったからゾーニングが必要だと思い始めた」と主張するのも良いなと思った。

書いてみて思ったけど、これは負荷が強いので被害を受けた人全てにおすすめできるもんじゃない。過去と向き合って言葉に記すのは、ひとりで思い返すのとはまた違ったダメージがある。それでも「やっと言えた」という安堵や、肩の荷が降りて遠くに出荷されていく感覚もある。

被害を口に出すことで何かを変えたいと思う人がいたなら、私はその人のことをとても尊敬する。無理をしないでほしい、とも思う。

 

ひとりでずっと背負っていた荷物だから、重さも価値もよくわからなくなってしまった。そのまま廃棄されるのか、どこかで大切にされるのか、今の私には検討もつかない。

どうか社会にとって蟻の一歩ほどでいいから役に立ちますようにと、軽くなった肩を回しながら願っている。